アンダルシアの土産

旅先で、これぞという物を見つけたい。
それに出会った時の喜びは大きい。
見るたび、使うたびに、その時の旅がよみがえる。

インドでは、ヒンズーの坊さんが被っていた帽子。
染みだらけの帽子を頂いて、
同じデザインで何点か仕立てて、
街中を被って歩いている。
被る度にラジャスタンの風が吹く。

タイ国のチェンマイで出会ったのは、
細かく編み込まれた蓋付きの籠。
ダイニングの電話機の横に置かれている。

カンボジアのクメールの草木染め織物は、
冬になるとマフラーとして登場する。

今回の旅で出会った物は、木の鉢。
樫の木を刳り貫いて作ってある鉢はずしりと重い。
百年以上前のもので、風格が感じられる。
見つけた場所は、
スペインのアンダルシア地方にある
ミハスという小さな村。

この村が、実に素敵なところだった。
山の斜面に点在する「白い村」
海岸線から内陸に入って行くと、
突然、一塊の白い村落が出現する。
雨の少ないアンダルシアの褐色の大地、
緑といえば、
葡萄、オリーブ、コルクの木々、
そして青い空が延々と続く風景。
そこに忽然と現れた白い塊は、
感動するほど美しい。

2007年8月上旬。
ある旅番組のロケ先のひとつが
このミハスという村だった。

ここで、テレビの旅番組というものについて・・・。
あの木の鉢は何に使う物なのかは、お楽しみに。

今年は夏に入って、三本の旅番組が決まっていた。
年頭からドラマ、映画が続いていて 
「夏になったらバカンスを兼ねて何かいい企画の旅番
 組があると、俺としては嬉しいんだけどな」
などとほざいていたら、
何と、立て続けにぽんぽんと決まってしまったのだ。

一本目は、すでに放送された、
長寿番組「遠くへ行きたい」初出演。
四国は徳島県阿南市にある小さな漁港の町、
椿泊に3泊4日の短期ロケ。
スタッフも監督、カメラマン、
いずれも何本ものシリーズを手掛けている熟練で、
おまけに夜は殆どロケが無いため、
チーム一丸和気藹々の楽しい旅でありました。
ロケ先の椿泊の人々も人柄がまことに良く、
一年前に出会った人達とも、
懐かしく再会を果たし、
来て良かったとしみじみ実感した旅でもありました。
「サブタイトルが
 〜伊武雅刀のぼくの夏休み〜なんだから
 歩き回るだけじゃなく、
 本を読んでるとか昼寝してる
 カットも撮ってほしいけどな」
という注文をひとつ付けただけでした。
一年前、椿泊を中心にロケした映画も、
この秋、公開されるとか。

二本目が、今回の旅番組。
まだ放送前なので詳しい事は公開出来ないが
(8月の末にオン・エアーされるらしい)
スペインのアンダルシアをドライブしながら、
風光明媚な場所を紹介していく、
といった番組である。
スケジュールは7月31日から8月8日まで。
それに某ファッション雑誌の取材を
マドリッドで2日間プラスした。

20年振りのスペイン。
出発寸前までドキドキワクワクしていた。

アンダルシアといえば、
スペインでも太陽が燦燦と降りそそぐ、
まさに情熱の国を代表するような地域だ。
今の時期は、ヨーロッパ中から
バカンスをもとめて大勢の人々が集まり、
陽気に騒いでいるだろう。

しかし、そこは仕事で行く旅。
そんな甘いもんやおまへんにゃー
というスケジュールが私を待っていた。
マドリッドからグラナダまで、
飛行機の移動かと思いきや、
車で移動するのだ。
機材の関係でということらしいが
(という事は俺も機材の一部か、はっはっはっ)
移動時間6時間、途中休憩と昼飯に
高速道路脇のガソリンスタンドに寄り、
併設されたドライブインレストランで不味い飯を食い、
強烈な暑さにうんざりしながらグラナダにたどり着く。
初日の事だから、まだ元気さはあるものの、
こういう疲れはあとで
ボディブロウのように効いてくるのだ。
その日はさすがに撮影は無く、
荷物を紐解き、湯船に浸かり、
さあ飯だと出かける仕度をしていると
「夕飯は8時40分にロビー集合で近くのレストラン
 に行きます。5分前になったらまた電話します」
と、慎の字(俺のマネージャー)から連絡が入る。
陽の長いスペイン。レストランが開くのは9時から。
ぶらりと街に繰り出すも、夕方の日差しが特に強く、
茹だるような暑さに閉口して早々と部屋に戻る。

二日目は早朝よりアルハンブラ宮殿にてロケ。
観光客が入場する前に撮影しちゃおうという魂胆。
誰も居ない宮殿を観られるのは、旅番組の役得だ。
移動して、公園でオープニングのコメント撮り。
「20年前、私は、このスペインの
 アンダルシア地方のある小さな村に、
 40日間滞在していました。
 その時は仕事だったために、
 コスタ・デル・ソルの素敵な町々を巡る事が
 出来なかったんです。今回はそれらの町を
 訪ねたいと思います。楽しみです」
などというコメントを喋り、
アラブ人の土産物屋が軒を並べる一角で撮影して、
「今日はこの後、実景撮りに行きますので、
 伊武さんは夕景狙いでアルハンブラ宮殿が
 見える丘での撮影まで待機ということで、
 よろしくお願いします。」
と言われて撮影班と別れたものの、
夕景狙いって、9時半過ぎなきゃ
日が暮れないだろう。
撮影あるのに、冷たいビール
という訳にもいかんだろう。
冷えた白ワインなどもっての外だろう、
と蛇の生殺し状態の憂き目に遭い、
酒も飲めないんじゃ飯食っても
楽しめんだろうと夕食を我慢して、
レストランに飛び込んだのが
日もとっぷり暮れた10時半。
それも不味い中華料理屋で、
がっくりと不貞寝する。

三日目。アンダルシアの海岸地方へ移動。
まずはネルハという小さな街。
海岸で漁師の焼く×××を食べる。
移動。街の歩きを撮影。移動。
マルベーリャという高級リゾート地のビーチで撮影。
移動。
そして
やっと、あの木の鉢を見つけた
「ミハス」という白い村に辿り着いたのであります。
さて、あの木の鉢は何に使う物なのか。
その前に、もう少し撮影の話を。
この村では、ある家庭を訪問する事になっていた。
約束の時間は、夕方の6時。
それまでの1時間の間に村の歩きを撮りたい撮影班。
狙いは、白い村に光と影が織り成す
コントラストある映像。
しかし、空は曇り、陽が射してこない。
待ちになる。
村の中をぶらぶら歩いてみる。
ここは、結構有名な観光地らしく、
安物の焼き物や皮製品を売る店が何軒も並んでいる。
それらを興味なく物色していると、
ふと、一軒の店のショーウインドーに目が止まった。
そこに飾られた一枚の青い皿。
その青に魅せられた。
「これ買う、絶対買う」
ところがその店はまだ開いてなかった。
スペインの風習、長いシエスタのせいで
PM6時オープンなのだ。
「うーむ、あと30分か」
そこへスタッフが駆けつけて来た。
「今日は光が悪いので、明日、
 歩きのシーンを撮ることにしました。
 ですから早めにお宅訪問の撮影をします。
 村の奥の方に入るんで歩いて移動します」
「明日、何時ごろ、ここに来るの」
「光の関係で、おそらく昼前には」
店の開店時間を確認する。よし、開いている。

白い村の奥まったところにある一軒の白い家。
ここまで入り込むと
観光地の雑踏は嘘のように静かだ。
日本の家のように、小さく一軒を独立させて
それぞれ好き勝手な建物や壁の色に比べ、
全ての家が白い壁で統一された平屋建てで、
隣りの家との境は壁一枚。
一軒の家の面積はとても小さい。
それらの家並みを眺めているだけで、
粛然とした気持ちになる。
清々しいと思う。強い意志が感じられる。
壁の厚みに驚く。30センチはあるだろう。
その厚みが猛烈な日差しをブロックする。
さらに白く塗った壁が太陽光線をはじき返す。
木製の扉が開かれていて、
戸口ににこやかに微笑んだ老人が立っていた。
この家のご主人だ。
中に通される。涼しい。
奥に小さな庭があり、風が通る。
京都の町やの造りに似ている。
入り口のすぐ脇にある居間に
ご近所の老人たちが椅子に腰掛けていた。
世間話の最中にお邪魔したらしい。
奥にある右側の小部屋に案内される。
食堂兼夫婦団欒の場所だという。
座ってご夫婦との会話がはずむ。
印象に残った話としては、
村中の各家が、毎年、
自分達の手で白い壁を塗りなおす。
隣り近所同士が、とても仲が良い。
太陽が昇ると起きて、日が暮れると眠る。
幸せな日々だ。
排気ガスにまみれ、
都会の騒音に煩わしさを覚える我が身としては、
なんとも羨ましい環境だ。
幸せなご夫婦に会えただけでも、
この仕事を選んだ甲斐があった。

さて、いよいよ木の鉢だ。
翌日、再びミハスを訪れ、
撮影班が実景を撮っている間に、
あの青い皿が飾ってあった店に飛び込む。
大皿を二枚買う。
世界五大陶器のひとつとされる焼釜のものらしい。
その大胆なデザインと深い青が、
ピカソにも影響を与えた、らしい。
なかなか趣味の良い店で、
アンティークな小物が沢山
所狭しと飾られてある。
ふと、床に転がっている木製の鉢が目に留まった。
持ってみるとずしりと重い。
しげしげ見ていると、
店の主人が近寄ってきて
スペイン語で何やら喋っている。
その中に何度も出て来る単語があった。
「ガスパッチョ」
ガスパチョ?あのアンダルシア名物の
ガスパチョ・スープのことか。
この旅でもすでに3回は飲んでいる。
「*+&#%$*ガスパッチョ+*%&##$ツーハ
 ンドレットイヤズアゴー%*##$*ガスパッチョ」
「え、なんだ、ガスパチョはボーノ、あ、ボーノはイ
 タリア語か。200年前からガスパチョ?」
「シーシー、%&##$*#+ガスパッチョ*%%#」
「あん・???????」
そこへ実景を撮りに行っていた撮影班が戻って来た。
コーディネーターのT氏に通訳してもらったところ、
昔はその器でガスパチョを作って飲んでいた。
200年は経っている古い鉢だ、
ということが判明した。
それで、こんな古びた器が85ユーロもするんだ。
もう作ってないから希少価値があると言う事か。
「買う。俺はこれを買うために
 この旅を選んだのかもしれない。
 きっとそうに違いない。」

この木の鉢は、日本に戻って、
我が妻にもあたたかく迎えられ、
これまでそうめんを入れて氷を浮かべた。
豆腐を冷奴にして氷を浮かべた。
きゅうりと紫蘇の冷たい味噌汁を入れて
氷を浮かべた。
と、結構な活躍をしている。
ガスパチョは残念ながらまだ登場していない。

しかし
旅の出会いとは面白いもので、
この木の鉢には、旅の後半でもう一度出くわす。
しかも、おいしいガスパチョのレシピまで付いて。

マドリッドに戻り、雑誌の取材班と
合流した途端に天国が待っていた。
これは二日間の間お世話になった
コーディネーターのM氏の存在が大きい。
2000キロ以上にも及ぶ車の移動と
オリーブオイルで疲れた胃袋。
「まずは旨い日本食が激しく食いたい。」
と、M氏に案内された店が大正解の店だった。
餃子をたのみ、写真撮影があるので
小さなグラス1杯のビールで乾杯。
まぐろとうなぎを握りで一貫づつ。
自家製麺が旨いというので締めは冷やし中華。
撮影が終わり、
「お土産は何か買いましたか、
 イベリコ豚の生ハムは喜ばれますよ、
 あとはおいしい山羊のチーズがあります。」
M氏の助言に一行深く頷き、市場の隣りの肉屋へ。
「何種類か味見させてもらいましょう、
 その中で決めたほうが安心できるでしょう。」
一行激しく頷きあい試食して、
それぞれ決めると、
「真空パックしてもらいますから
 後で夕方にでも取りに来ましょう。」
 夕飯は何がいいですか」
こうなって来ると俺の悪い癖で、俄然わがままになる。
肉が食べたい方々もおられるだろうが何だろうが
「美味しい野菜料理と美味しいパエリヤかな」
「わかりました。マドリッドで
 一番のパエリヤを食べに行きましょう。
 お疲れでしょうから、
 それまで部屋でシエスタということで」
打てば響くとはこの事だ。
その夜のパエリアが絶品だった。
とくに、初めてお目にかかった、パエリア用の
ショートパスタを使ったイカ墨のパスタのパエリア。
このパスタは絶対買って帰りたい、と言ったら
「明日、家から持って来ますよ。
 ところで、明日はトレドを観光したいという
 オーダーでしたが、
 あまりにも観光地でお勧めできません。
そこで*****へお連れしたいと思います。
日本から来た観光客はまず行かないと思います。
ガイドブックにも載ってないんじゃないかな。
素敵なところですよ」
我々一行総勢7名、この時も深く頷いた。

そこは素晴らしい村だった。
今回の旅の中で、もっとも気に入った場所だった。
その村に入った途端,シシリア島で行った
ニューシネマパラダイスのロケ地の村が蘇った。
歩いていて、なぜか沖縄の竹富島を重い浮かべた。
ふたつとも大好きな場所だ。
小さな村のわりには、ショップの数が多い。
しかも洗練されたものを置いている店が多い。
観光地にありがちの
チープなものを売っている店が一軒もない。
ある店に入った途端
あのガスパチョの木の鉢が目に飛び込んで来た。
なんだか嬉しくなる出会いである。
もう一度、いつかここに戻ってこよう。
その時、この鉢が売れ残っていたら・・・。

その後、帰宅した私の元に、一通のメールが届いた。
それはスペインでお世話になったM氏からの便りで、
文末には「おいしいガスパチョの作り方」のレシピが
丁寧に綴られていた。
Date: 2007/08/21(火)


地方ロケ

仕事柄、日本全国色々な所に行けて、いい景色を見られて、
美味しいものが食べられて、結構な仕事ですなあ。
よく言われる言葉だ。
そうは問屋が卸さない・・・古いねえ。
そうはイカのキンタマ・・・これ子供の頃から言ってるが、
意味はよく分からない。いずれにしろ
遊びに行く時のような、わくわくとした高揚感はない。

「衣装、メイクを済ませて、一階のロビー・7時45分」
というスケジュールが部屋のドアの下から差し込まれる。
朝6時半にモーニング・コールで起きて、
心身をすっきりとさせるためにシャワーを浴びて、
7時からオープンしている
(朝食・バイキング・13Fレストラン「ルミナール」)に
急いで向かう。コーヒーで脳を活動させ、
急いでサラダ山盛り、ほうれん草のおひたし、
野菜の炊き合わせ、ボイルド・エッグ、コーンスープ、
パン2切れを選び、窓外にひろがる
美しい景色を眺めながら、急いで腹に収める。
(野菜が多いのは、昼食に配られるロケ弁当には
まるっきり野菜が入ってないのを
長年の経験から確信しているからなのだ)
周りを見回すと、なんでこんなに早くから起きているのか、
老若男女とりまぜた大勢の観光客で賑わっている。
バイキングの料理の前に群れをなしている。
早朝から元気溌剌食欲旺盛な方々で、
テーブルはほぼ満席だ。
隣のテーブルの若夫婦プラスでぶ子供二人の家族など、
人間が朝からこんなにも食べられるものかと
思うくらいの料理を所狭しとテーブルに並べて、
食らい付いている。
反対隣りの老夫婦を見ると、
ばあさんはクロワッサン一つに
少量のスクランブル・エッグとプチトマトという
想定範囲内の食事だが、じいさんの方は
ハム、ベーコン、ソーセージ、目玉焼きの皿の横に、
大量のコーン(大匙15杯と推察する)の入った別皿を並べ、
さらに別皿に山盛りのカット・メロンも確保して、
牛乳を一気に飲み干し、席を立つと
お代わりの牛乳を取りに行ったついでに
「焼き飯があったよ、気が付かなかった」
などと言いながらピラフを盛った皿を片手に戻って来た。
さらに、その向こうのテーブルでは・・・。
おっと、こんな事観察している場合じゃない。
急いで衣装部屋に向かい着付け、
小道具の時計を付け、靴を履き、
急いでメイクの部屋に向かい、
顔を作って、急いでロビーに向かう。

というようなロケの朝が、毎日繰り返されるだろう。
それでも、見慣れぬ風景が待っているロケ地。
行けば行ったで、やはりなにがしかの期待もある。

今回のロケ先は「小樽」
三年ぶりの小樽である。
今の季節、雲丹が旨いはずだ。
「N]寿司で飛び切り新鮮な魚が食えるかもしれない。
行者にんにくを道端で売っていた親父は健在だろうか。
欠けてしまった北一硝子の醤油注しも買わねば。
みやげは、やはり魚だろう。時知らず、きんき、塩水ウニ
そうそう、あさりほどの大きさのしじみが
時期じゃなかったか。夢はひろがり、よだれが溢れ・・・。

初日。
羽田発2時、4時30分に小樽のホテルにチェック・イン。
撮影はナイトシーンのみなので、シャワーでも浴びるかと
裸になったところにベッドサイドの電話がなる。
「すいません、5時出発でお願いします」というか、
荷物もまだ解いてねえじゃねえの。
マイクロバスに乗せられ、忍路(おしょろ)に着く。
夕日が綺麗な景勝地。
しかし、厚い雲が垂れ込めている。
目の前の漁港に落ちる素晴らしい
夕日は拝めそうもない。暮れなずむ桟橋を歩いてみる。
海中を覗くと、雲丹がいる。岩ガキも見える。
地元の人がいるので食べられるかどうか聞いてみる。
コンブを餌に旨い雲丹が育つらしい。
「イブさん、弁当、魚と肉どっちにしますか」
スタッフが聞いてくる。
「魚のほうくれる」
夕飯が配られる。
魚は鯖の塩焼き、それも外国直輸入の鯖ときた。
目の前の海には、雲丹が腐るほどいるのに・・・。
北海道だろう。せめて鮭とかほっけぐらい・・・。
ここが、迷うところだ。
終了予定が、21時30分。
食わずに、急いで寿司屋に行けば
ぎりぎり間に合うか。
でもなあ、この日の撮影は、
初日だというのにいきなりラストに近い、
犯人逮捕の大団円のシーン。
夜中までかかる事も充分考えられるし、
さあ、どうするか。
思案していると、雨が降り出した。
「雨待ちして、やみ次第リハーサル開始します」
仕方ない、食うとするかと決断して、
弁当をひろげ溜息を付きながら
冷たい飯粒を噛みしめているところに、
監督が通りかかった。
「あっ、監督、おはようございます」
「おお、遠路はるばるご苦労さん。
イブ君が来た途端に雨だ、君、雨おとこ」
「えっ、いや、そんなことは」
昔から晴れ男と絶対の自信があるが、あえて否定せず。
おとなしく魚弁当を食い続ける。
その日の撮影は、やはり遅くまでかかり、
ホテルに戻って近くのコンビニで
寝酒を仕入れて、軽く飲んでおとなしく寝る。

ロケ・二日目。
ホテルの出発時間が9時なので、
人並みにゆっくり朝飯が食べられた。
この日の撮影は、燃え盛る廃船のそばで
漁師に尋問するシーン。
中空きがあって、夜は小樽市内に戻り、
オルゴール堂の前での犯人尾行シーン。
ロケバスに揺られること小一時間。
現場の浜に着く。
本番は盛大に燃やされる予定の廃船が置かれ、
傍の流木に一升瓶を片手に酒を飲んでいる漁師役は、
いぶし銀の泉谷しげる氏。久し振りの対面。
「いや、昨日あれだろ、遅くまでかかったんだろ、
早く終わったら一緒に飯でもと思ってたんだけどさあ。
監督、時間かかるからな。
俺はこのワン・シーンだけで呼ばれたから、
一応今日中に帰れる事になってるけど、どうだかな。
今日中に帰れなかったら飲もう」
と泉谷氏。
「うん、いいね。じゃあ帰れないこと期待して」
「そりゃお前、帰れたほうがいいだろう」
などと雑談していると、リハーサル開始となる。
監督には、いろんなタイプがいる。
撮り方にも夫々の個性がある。
カットを細かく撮る監督。
長くフィルムを回す監督。
この作品の監督は、ひとつのシーンを
頭から最後まで切らずに撮る。
次にカメラを反対方向に据えて、また頭から最後まで。
さらにドンと引いた位置にカメラ据えて、頭から最後まで。
ここで終わるのかと思うと、別アングルから
もう一度お願いします、となる。
ハリウッド映画の撮り方に近い。
編集の魔術で定評ある監督であり、
現場にいい緊張感があって心地よい。
だがこのシーンでは、急いで駈け付ける刑事なのだ。
しかも波打ち際を脱兎のごとく走って来るのだ。
燃える廃船まで、およそ百メートル。
そのうえ、一緒に走るのが上司役の阿部寛君。
俺より若い。俺より足が長い。
ここんとこ走る仕事なんて無かった。
警視総監とか、悪の親玉とか、軍師の坊さんとか。
「よーし、テスト。・・・ヨーイ、スタート」
ここでもう一つバラすと、テストと言いながら
フィルム回してるんです。
あとで編集の時に、テストで撮ったのを
挟み込んだりする監督なんです。気が抜けないんです。
だから、全速力で走った。
部下である俺の方が先に駈け付けなければいかんと
必死で走った。はぁはぁはぁはぁ・・・。
「はぁっ、ここに、誰かがはぁはぁ、
 何か投げ込みませんでしたか、はあはあ、、、」
と最初のセリフを言い終わって、立ち眩みがした。
「よーし、本番」
監督の声にスタート位置に戻る。
「ヨーイ、スタート」
全速力で波打ち際を走る、刑事、伊武。
はぁはぁ、ぜぃぜぃ、はあはあ、ぜいぜい・・・。
そして漁師との会話のやり取りの後、
「いや、ありがとう・・・どうも、ありがとう」
と漁師の指した方向に向かって走り出す、刑事、伊武。
「OK。今のはOK...いい引き絵が撮れた。
 今度は、もう少し寄ったサイズを撮ります」
スタート位置に戻る刑事伊武。
「よーし、テスト・・・風向き大丈夫か、
もっと激しく燃やしたぁ
よーしいいぞー・・・テスト、ヨーイ・・・スタート」
はあはあはあはああはあへあぐあぐあああああ

きりが無い。
要するに、このシーンが終わった頃には、へとへとで、
いやあ我ながら、簡単に楽させちゃあくれないなこの商売も、
と肝に銘じた次第でありました。
しかし、考えてみればありがたい仕事です。
不満を言ったら罰が当たる。
北海道の浜辺を、懸命に走らされるというような
予測不可能な状況に見舞われる日々と、
庭の植木に水を撒き疲れたら
昼寝するというような毎日を送るのと。
どちらがいい、と言えば人それぞれでしょうが。
私としては、このような「時」を与えてくれる
「何か」に感謝するのでございます。
たとえ、この走りで翌日は足がぱんぱんに
張り動くのも大儀な身になろうとも。

昼の12時過ぎ。
最初のシーンの撮影終了。
泉谷氏は、機嫌よく帰っていった。
「イブさん、弁当、肉と魚どっちにしますか」
「俺、この後、夜まで出番ないよな。今からどうなるの」
「ホテルまで送ります。部屋で待機してて下さい」
「あ、そう。じゃあ弁当いらないわ」
幸運である。ロケ弁当から逃れられる。
スタッフには申し訳ないが、小樽の町に戻って、
ラーメンか蕎麦でも食おう。
いや、本当にスタッフは大変なのだ。
ロケの間中、ひたすら弁当を食べ続ける。
「たまには、うどん食べたいね」
なんていう声がスタッフの間で囁かれる。
昔の話だがある地方ロケに二ヶ月行っていたスタッフが、
どうも体調が良くないと東京に戻って医者に行ったら
「・・・酷いなこりゃ、あなたこの一年何食べてました。
 内蔵が相当やられてますよ。しばらく入院だな、これは」
と言われて愕然としたという。
そんなスタッフの前で、昨夜は小樽の寿司屋で、
魚介類の盛り合わせで一杯やって、
なんて言おうもんなら張り倒されるかもしれない。
冗談はさておき、ホテルまで向かう道すがら、
ラーメンか蕎麦か密かに迷いつづける俺がいた。

昼食は、ホテルのちかくで中華そばを食べる。
帰りにホテルの裏手にあるアーケイドに、
無農薬野菜を作る村の人々が道端で野菜を広げていたので、
これ幸いと、きゅうり、トマト、ルッコラ、
自家製玄米パンを買い求めて、部屋に戻り、
ベッドの上で文庫本を開いた途端、
睡魔に襲われ眠りの世界へ。

突然、電話のベルが鳴り響く。
「今から、お部屋のほうに弁当お持ちします」
何。夕方の出発の前に飯食っとけと言うことか。
俺はブロイラーじゃねえんだ。
ピンポーン。
「魚のほうで良かったんですよね。
 現場、ちょっと巻いてるみたいで、
 若干出発時間早まるかもしれませんが、
 あとで連絡入れます。よろしくお願いします」
「はい、分かりました。あ、でもナイトシーンだよね、
 暗くならないと撮れないんじゃないの」
「まあそうですけど、連絡入れますので待機してて下さい」
一応、配られた弁当を開けてみる。
ほう、うなぎが一切れ、海老、これはホッキ貝か、
シュウマイ、肉じゃが、なかなか結構なもんでげすな。
夜のシーンも多分遅くまでかかるだろう。
部屋で飲む寝酒のつまみにしよう。
風呂に入る。足がやや張ってるので揉んでやる。
しかし、何か腹に入れておかないと不味いか。
昼間買った玄米パンを思い出す。野菜も思い出す。
弁当に入っていたマヨネーズも思い出す。
ナイフは持って来ている。
軽い夕飯を作る。
パンを切り開き、マヨネーズを塗って、
薄切りしたきゅうりとトマト、
ちぎったルッコラを挟んで、自家製サンドの出来上がり。
昨夜コンビニで買っておいたペットボトル入り
無糖ブラックコーヒーも思い出す。
軽めの夕食を食べる。

ナイトシーンの現場に到着。
メルヘン通り。小樽観光のメッカ。
この辺りと、小樽運河には常に観光客が群れをなしている。
しかし、夕方の6時を過ぎると、誰もいなくなる。
北一硝子も、オルゴール堂も、チョコレートの六花堂も、
6時閉店なのだ。
あっ、ということは、醤油注しが買えない。
それはともかく、見物する人々がいないのは、
ロケとしては良い条件だ。
黒山の人だかりを捌くだけでも苦労する。
本番中にカメラのフラッシュをたかれて撮り直しという
不測の事態もあった。
子供が泣き出してもう一度などという事もあった。
夜のシーンは、犯人を尾行する刑事たちを狙う数シーン。
まずは、北一硝子の前の道を走りぬけランプ堂から
出て来る犯人と鉢合わせして慌てて引き返す
刑事達という場面から。
また走りだ。
通行人のエキストラを入れたリハーサル。
監督の声がかかる。
「ようし、テストォー、いいか、いいな
 ヨーイ、スタート」
観光客を装ったエキストラの間を掻き分けて
車に乗り込む刑事達。
カットがかからないので次のシーンの筈の
車の中のセリフまで続ける。
役者の性というやつだ。
そして本番。アングル変えて、テスト。本番。
時計台の上から広い絵を撮る。
テスト。本番。
「次のシーン行きまーす」
リハーサル。テスト。本番。テスト。本番。テスト。本番。
こうして夜は更けていく。

全ての撮影が終わった頃には、小樽の巷の灯りは消え、
街は寝静まっている。
メイクを落とし、宿泊先のホテルに向かう。
疲れた。早く横になりたい。明日も早い。
まともな夕食を食べてないので腹も減っている。
窓外に流れる小樽運河に人影はない。
ホテルに到着。
「おつかれさまでした。明日7時出発なので
朝食は上のレストランが6時半から
食べられるようにしてあります。よろしくお願いします」
フロントでルームキーをもらい、8階の1805室へ。
部屋に入り、浴槽に湯をため、台本を開いて
明日やる予定のシーンに目を通す。
湯船に浸かる。疲労した筋肉が解されていく。
窓の傍の小さなテーブルに、昨日の寝酒の残りの
「芋焼酎・黒薩摩」と電気ポットと茶碗を並べて、
弁当の包みを開き、椅子に腰掛る。

ささやかな独り酒宴。
小さな幸せのひと時。
長い一日だった。
この仕事、12時間労働はおろか、
それを超える日々が連日続く。
ある人が聖者に聞いた。
「お金があれば幸せになれますか」
聖者が答えた。
「金で幸せの質は買える」
窓外には、静寂に包まれた小樽の街が横たわっている。

ふと空を見上げると、満月が煌々と輝いていた。
Date: 2007/07/17(火)


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